ネットでつながるキリスト教会、世話人のNです。
結論から言うと、神が人間を創造した目的は、神が人間と愛し、愛される関係を持ちたかったからであり、キリストは、アダムとエバがもたらした人間の罪により、愛ある神と人間関係の断絶状態を、罪により断絶される前の、神と人間が愛し愛される当初の関係に回復するためでした。
神が人間を創造した目的
神が人間を創造した目的は、神が本当の価値ある愛に根ざした関係を人間と持つためです。
最初の人間であるアダムと、その助け手のエバが神によって、つくられた目的は、明確に聖書に述べられていませんが、エデンの園における、神とアダムらの関係から推察することが出来ます。
神がエデンの園を歩き回り、アダムとエバを探していたことから、それまで神は、直接顔を合わせて、アダムらと話しをしていたことが考えられます。
そのことから、神は人と近い距離でコミュニケーションを取ることは、神が人を創造する上で重要視していたことの1つではないかと思われます。
しかし、アダムとエバは、神が食べてはならないと警告していた善悪を知る木の実を食べてしまったために、罪が人類に入り込み、その後、人間が生れながらに罪を持って生まれることになってしまいました。
そのような大きなリスクのある木をアダムとエバがいたエデンの園に、神がつくらなければ、罪が人間に入り込むことはなかったのだから、これは、人間が悪いのではなく、神が悪いのだと考える人もいるでしょう。
でも、これまで伝えられてきたこと、すなわち、神が真実で正しい方であると仮定すると、おそらくは、リスクが大きくても、あえて、エデンの園に、その木(善悪を知る)を植える必要性があったからだと、考えられます。
神が人間に自由を与えた理由
神が人間に自由を与えた理由もまた、神が人間を創造した目的と同様、神が本当の価値ある愛に根ざした関係を人間と持つためです。
また、どうしても、その木を植える必要があったなら、人間が、その木を食べないよう、あらかじめ、ロボットのようにプログラムすれば良かったのではないかと考える人がいると思います。
でも、ロボットのように、あらかじめプログラミングされた人間と、今いる人間と、どちらに価値があると思いますか?そして、その理由は何だと思いますか?
自分が神の立場だと、どう思うか、考えてみると、分かりやすいと思います。
みなさんの家族、たとえば、お父さん、お母さん、夫、妻、恋人、子供に、同じ役割の人が2人いるとします。ひとりは、プログラミングされたアンドロイド(外観は人間だけど、中身は、自分のことを、いつも愛していると言ってくれるロボット)と、普通の生身の人間。
みなさんだったら、アンドロイドと、生身の人間、どちらに愛していると言って欲しいですか?
自分の理想としてくれる、愛らしい言葉を、いつでも、投げかけ、常に自分思う通りにしてくれるとしても、あらかじめ、そうするようにプログラミングされているアンドロイドに、そのように接してもらって、みなさんは満足しますか?
では、この場合、アンドロイドと人間の違いは何でしょうか?
アンドロイドは、いつも好きとか愛しているという言葉をかけてくれるのに対し、人間の場合は、愛していると言う可能性もありますが、状況によっては、嫌いと言う可能性があります。それは、人間には、自由があるからです。それを決めるのは、相手や第三者ではなく、強制されてでもなく、自分自身で決めるからです。
そして、その自由を人間に与えたのは、私の知る限り、聖書に書かれている通り、神です。
では、神はなぜ、人間に自由を与えたのでしょうか。
それは、先に触れたように、神は、自由意思に基づいた、本当の価値ある愛を人間から受けたかったからだと考えられます。
ナルニア国物語の著者で、英国オックスフォード大の教授でもあった、C.S.ルイスは、こんな言葉を残していますが、私は、神が人間に与えた自由について、
非常に、納得感のある理由づけだと考えています。
「神は自由意思を持つ存在を創造した。それは、その被造物(人間)が間違いを犯すこともあれば、正しくもあり得ることを意味している。
自由だったら被造物(人間)が間違いを犯す可能性がなど考えられないと言う人がいるが、私にはそう思えない。
もし被造物(人間)に、正しい者になる自由があるのなら、邪悪な者になる自由もあるからだ。
つまり、悪を可能たらしめたのは、自由意思なのだ。
では、なぜ神は、被造物(人間)に自由意思を与えたのだろうか。それは、悪を可能にしたのが自由意思であるとはいえ、愛や善意、喜びを持つ価値があるのは、唯一自由意思のみだからだ。
ロボットの世界、つまり機会のように作動する被造物(人間)の世界などは、創造する価値がないのである。
神が他よりも優れた被造物(人間)のために用意した幸福は、自由という幸福なのだ。
すなわち、自ら進んで神と心を一つにし、地上の男女間に働く、有頂天になるほどの愛ですら、ミルクや水のように思えるほどの愛と歓喜の法悦の中で、神と愛し合うように定めたのである。
そのためには、人間は自由でなければならない。
もちろん、神は、人間が自由を乱用すれば、どうなるかをご存知であった。それでも神は、そのリスクを負う価値が十分にあると考えたのである。」
C.S.ルイス(キリスト教の精髄)から抜粋。
もし、ルイスの見立てが正しければ、この世の中で、人間により引き起こされている戦争、殺戮などの悲惨な出来事は、人間に与えられている自由の乱用によるものだと言えます。
自由が乱用されていたとしても、それに神が制限を加えれば、人間が価値ある愛を持って神と親しい関係を持つ機会を奪うことになります。だから、世の中に悲惨なことが起きても、それを神が強制的に変える力がありながら、敢えて、それを行使しないのでしょう。
アダムとエバの失敗によって罪が人間に入り込んできたあとの状態
アダムとエバの失敗によって罪が人間に入り込んできたために、神と人間の愛ある関係は、成立しなくなりました。
その後、神と人間は離れた存在となり、罪が入り込む前は、顔と顔を合わせて話すことが出来ましたが、祈りを通じて、人間が神にコミュニケーションを取ることが唯一の手段となってしまいました。
神の声を聞くことは、キリストが救いの道(十字架の救いを受け入れることで、神と和解し、神との関係を回復する)を切り開いたあとでも、神の声を聞くことは困難で、稀なこととなってしまいました。
これは、アダムとエバがエデンの園を出るタイミングで、それまで人間が持っていた霊的能力(霊的に神と話をするコミュニケーション能力)を失ったからだということが、一般的な見解です。神は霊であり、人間もまた、肉体だけでなく、魂と霊を持っています。
キリストは、神と人間の間の愛ある関係を回復するために世に来られた
アダムとエバの罪により、人類全体が生まれながらに罪を持って生まれることになりました。罪の存在のため、人間が神に近づくこと、話すこと、逆に神が人間に近づくこと、話すことが出来なくなってしまいました。
イエス・キリストの十字架の救いとは
ですが、神は、人間との愛ある相互関係を回復するために計画を立てました。それは、神が神としてのあり方を全て捨てて、人間として地上に生まれ、十字架の上で自ら命を捨て、病を背負い、呪いを受けて、死ぬことにより、神と人間が和解する、救いの道を提供し、人を病と呪いから解放することでした。
イエス・キリストが十字架で人間の身代わりとなって裁きを受けたこと、それを信じて受け入れれば義と認められることを(罪の無い状態として神からみなされること)、自分の心で信じて、それを口で告白すれば、救われるのです。
聖書には、こう書かれています。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
新訳聖書:ローマ書:10.9-11
でも、人間が死んでから、生き返るなんてことは、有りえないから信じられないという人もいるのではないでしょうか。
聖書の記録を見ると、実は、イエスが十字架の上で死んだのち、生き返る前に、死んだ人をキリストがよみがえらせたケースが2件あります。
人間に不可能なことが、神には出来るのです。
キリストは本当に蘇ったのか
理知的な方々のために、本当に、キリストが生き返ったかどうかを、確率論で解き明かしてみましょう。
キリストには、生きている間にいつも行動をともにした、12弟子がいました。そのうちの11人は殉教しました。殉教とは、この場合、キリストは神で、罪を償うために人間として地上に来られ、3日後に蘇ったという教えを人々に説いたために、それを聞いた人たちに殺されてしまったことを示します。
厳密に言うと、12弟子のうちの1人のヨハネは、他の弟子同様に、その教えを説いたために、牢獄で監禁され、獄死したので、殉教であると言えるとおもいます。
キリストが本当に死んだ状態から生き返ったかどうかは、12弟子は知っていたに違いありません。そして、それを主張することが命がけの行為であることも、あらかじめ分かっていました。
十字架の救いは、当初、ユダヤ人として生まれたキリストにより、ユダヤ人の間にもたらされたものでしたが、ほとんどのユダヤ人は、キリストが救い主来ることを、旧約聖書時代の預言者を通じて知っていましたが、信じなかったのです。
そのため、12弟子が、イエス・キリストを神とて信じ、それを公に説く行為は、当時ユダヤ人からは異端とみなされ、背教行為で死に値すると考えられていたため、命がけでした。
もし、キリストが十字架で死んでしまって、普通の人間のように、死んだままだったら、12弟子が全員、命がけで、キリストは神であって、死んだ3日後によみがえったと伝えることをするでしょうか。
仮に、12弟子全員が、キリストが死んだままで3日後に生き返ることがなかったのに、うそをついて、ユダヤ人に命がけで、そのうそを説く行為を取った場合の確率を調べたいと思います。
キリストの復活を確率論から分析してみると
12弟子のうちの1人がキリストは死んで蘇ったかどうかという点に関して、蘇ったことが真実である可能性が50%(2分の1=2/1), 蘇ったことが嘘である可能性を残り50%とした場合、12弟子全員がキリストは生き返ったとうそをついていた確率を表した数式は、
1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2 x 1/2で表され、=0.02%
という確率が導き出されます。
0.02%という数字が表す確率(割合)を水にたとえてみましょう。
地球上には、14億km3の水が存在しているそうです。
海水、川、湖、地下水、そして、氷河、大気中の水蒸気を全て足し合わせた総量です。
そのうちの98%を海水が占めます。
人間が利用出来る水は、地球全体の水の0.02%程度とのことです。
たとえば、地球上に今と同じ状態で、海水、川、湖、氷河、大気中に分布している状況下で、人間が利用出来る水0.02%の水に着色して、地球上のどこか1箇所に隠した場合、見つけることは、かなり困難だとおもいます。
先ほどのキリストの12弟子全員が、キリストが死んだ状態から蘇ったと嘘をついた確率を、人間が利用出来る水の割合に照らしてみると、確率としてはかなり低いこと分かります。
救いを得るために、お金や善行は必要?
救いを得るためには、お金や善行が必要なのではないかと考える人がいるかもしれませんが、そのようなことはありません。
救いは、人がどのような状態にあっても、心で信じて、口で告白するだけで受け取ることが出来ます。
神の永遠の裁きとは?
では、救いを受け取らないで死んでしまうとどうなるでしょうか。
神の裁きを受けることになります。
裁きは行いだけではなく、心の思いも対象になります。裁きがどのようなプロセスで行われるかについて具体的なことは示されていませんが、心の中の悪い思いさえ裁きの対象になるのであれば、すべての人が有罪になります。
問題なのは、その裁きが一時的なものではなく、永遠の時間継続するということです。
裁きで有罪になると、地獄に行くことが決定されます。
永遠に火で焼かれる苦しみを味わうことになるのは、本当に辛いことだと思います。
でも、救いを受け入れた人は、裁きを受ける必要が無くなるというのが、神の約束です。それだけ、キリストの十字架の贖い、救いは完全なのです。
キリストを信じる者は裁かれない
「神が御子(神の子、キリストのこと)を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない」聖書のヨハネ書3.17-18にある通りです。
キリストが地上に来たのは、神の人間に対する愛から
そして、キリストが世に来たのは、人間に対する愛からであると、明確に示されています。
「神は、実に、そのひとり子(キリストのこと)をお与えになられたほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」ヨハネ書3.16に書かれている通りです。
私個人の考えでは、たとえ、疑問に思うことがいくつかあったとしても、救いを受け取ることは、将来に対する保険になると思っています。
救い、裁きが本当のことであれば、救いを受け入れずに死んだ場合は、裁きを受けなければならなくなり、裁きを受ければ、ほぼ100%有罪になると思います。その場合、永遠の苦しみを地獄で受けることになります。
最後に
キリストの十字架の救いは、人間の一部の人達を対象としたものではなく、全人類のためのものです。世の終わりの裁きもまた、全人類を対象に行われることになります。そして、裁きを受けることになれば、全員が例外なく、有罪となり、地獄で永遠の苦しみを受け続けることになります。けれども、神は人間を愛しているので、裁きを受けて欲しくありません。そのために、キリストが十字架の救いを完成しました。どうか、この救いを受け入れて、永遠の命を得て、神と和解して、天国に行ってください。何か疑問があれば、私が責任を持って答えます。みなさんが、救いを受け入れことを願ってやみません。
ネットでつながるキリスト教会、世話人のNでした。
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