人を愛すること – 神を愛すること – 神に愛されること ?

ネットでつながるキリスト教会、世話人のNです。

「愛は地球を救う」という言葉を聞いたことがあります。どのような人が、どのような意味で言ったのか分かりませんが、ある意味、的を得た言葉だと私は思います。

なぜなら、神は、この世で一番大事なことは、人と人が互いに愛し合うことだと言われたからです。

この人と人との愛とは、恋愛関係にある人同士のケースだけではなく、あらゆる人と人の関係において、あてはまるという意味で用いられています。

イエス・キリストが十字架にかかる前、弟子たちに新しい戒めを与えられました。

「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(新約聖書:ヨハネの福音書:13章34節

神と人との間の愛ある関係とは?

神の人間に対する愛とは?

神がどれだけ、人間を愛しているかが表された言葉があります。

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

(新約聖書:ヨハネの福音書:3章16節

ここで、「世」という言葉が使われています。これは、人間の生活の営みを神が愛されていることが言い表されていると私は思います。

神がどのように、人間の生活の営みを見ているのか、神が預言者に話した場面が旧約聖書には出てきます。

ヨナという預言者(神からの言葉を預かり、必要に応じて、その言葉を人々に伝える役割を持った人)が、神から、ニネベという町に行って、そこの人々に、罪を悔い改めなければ、その町が滅ぼされることを宣言するように言われました。(旧約聖書:ヨナ書)

でも、ヨナは、神から言われたことに応じず、神のみ顔を避けて、別の町に行こうと、船に乗り込みます。

その後の話は、少し省略しますが、ヨナは、再度、神にニネベの人たちに宣言することを求められ、渋々、それに応じて、3日かけて、その町を巡り歩き、宣言します。

ニネベの町は行き巡るのに、3日かかるほど、大きな町だったわけですが、人口数の差はあれど、今日の東京くらいの規模の大きな町であったことがわかります。

王をはじめとする、ニネベの町の人々は、ヨナの宣言を聞いて、悪の道から立ち返る努力をして、それを見た神は、彼らに下すと言っていた災いを思い直して、そうしませんでした。

ところが、それを見たヨナは不愉快になりました。

ヨナが何故、神から言われたとおり、ニネベの町の人々に宣言しなかった理由をヨナは次のように語っています。

「冒頭部分、略。

 私は、あなたが情け深く、あわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直すことを知っていたからです。

主(神のこと)よ、今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」(ヨナ書:4:2)

ヨナが言ったことから判断すると、悪い人たちは、滅ぼされて当然だと考えていることが分かります。

現代のキリスト教会の中でも、いつも人のことを裁いている人がいます。それは、自分は神の前で正しい生活をしているから、そうでない人は、神の裁きを受けるべきだ、非難、批判されて当然だと考えていることが多々見受けられます。

でも、その考え方は正しいのでしょうか。

旧約聖書の時代、神がモーセに十戒を与えました。そして、それが、キリストが出現するまで、ユダヤ人の生活の規範となっていました。

そして、今日、キリスト教会においても、モーセの十戒を守り、罪を犯さないことが重要視されていることがあります。

ところが、キリストは、モーセの十戒を守ってさえいれば良いと考えているユダヤ人に対して、神の基準を明確に示しました。

ある女性が姦淫の場で捕らえられ、パリサイ人や律法学者(当時のユダヤ人社会で、最も厳格にモーセの律法を守っていると見なされていた人々)によって、キリストのところに連れて来られました。

そして、彼らは、キリストに対して、モーセは律法で、このような女性は石打ち(石を人から投げつけられて死ぬ、処刑のようなもの)にすべきだと言っているが、考えを聞かせてくれるよう問い質します。

キリストは、石打ちにすべきだとは言わず、パリサイ人や律法学者らの群衆に向かって、

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。

ここで、キリストが投げかけた言葉から、分かることが1つあります。

それは、パリサイ人や律法学者のように、律法に照らして、いくら自分が、正しいと考えていたとしても、神の前に、罪のない者はないと、神は見ているということです。

それが、はっきりと示された聖書の箇所があります。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、

悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、

これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」とキリストが言いました。

このキリストが示された基準と、モーセの律法の違いは何でしょうか?

神が見ている基準は、モーセの律法で主だって言われているところの「行い」だけではなく、「心に持っていること」も重要だと、見ているということです。

人が自分の行いを誇って、自分は正しい、義人だ、他人のように罪深くないと思って、他人を裁いてみたところで、そのような人は神から、キリストの十字架のあがないにより救われているに過ぎないという立場を忘れ、神から見たら、他のあらゆる人と比較したとしても、罪深い性質を持っている人間であることには、何ら変わりがないという現実を認識出来ていないに過ぎません。

ヨナのことに話を戻します。

ヨナが、ニネベの悪い行いをしていた人が神から滅ぼされずにすんだことに腹を立てていましたが、そのようなヨナに、神は言いました。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごま(神が腹を立てたヨナの機嫌を直そうと生やした植物。その後、枯れてしまう)を惜しんでいる。

まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

この言葉から、神が日常、人間のことを気にかけ、働いていること、慈しみ育てていることが分かります。

神は、人間からの愛を求めている?

キリストが大事な命令は何かと問われたときに2つの指針を示しました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

の2つが大事だとキリストは答えました。

1つ目の命令である「主を愛する」ことは、日曜礼拝に出席すること、教会の奉仕活動を行うこと、献金をすること、祈り会に出席することであると一般的には認識されていることもあるかと思いますが、これらのことは、「主を愛する」の一部ではあると思いますが、重要度としては、それほど高いとは思わないと言ってしまうと誤解が生じやすいと思われます。

しかし、これらのこと以上に大事なことは、神様との関係性にあると思います。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、主を愛する」とは、普段の生活の中で、神のことに心を向け、思い巡らすこと、聖書のみ言葉を黙想することが含まれると思います。

神のことを黙想することは、聖霊との交わりだという人がいますが、わたしもその通りだと思います。

そして、キリストが弟子たちに与えた新しい戒めである、人と人が互いに愛し合うこと。

そうすることによって、神と人の関係が、神としもべから、神と、「神の友」の関係に変わるということは、とても大事な点だと思います。

なぜなら、

「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。」

とキリストが言われているからです。

神が大事だと思っていること(人を愛すること)を実行することが神を愛することになり、神のしもべから友になる、神との特別な関係になることにつながるのです。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(新約聖書:ヨハネの福音書:14章23節

ネットでつながるキリスト教会、世話人のNでした。

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